LOGIN茶会というものは、花と菓子と微笑みでできているように見える。
けれど、実際には違う。 茶会は、刃を布で包んだ社交の戦場だ。 誰を上座に置くか。 誰と誰を隣に座らせるか。 どの家の夫人に最初に茶を勧めるか。 どの話題を避け、どの話題をあえて投げるか。 たった一つの席順で、十年前の婚約破談が蒸し返されることもある。 たった一杯の茶を先に出しただけで、派閥の序列が変わったと解釈されることもある。 たった一言の挨拶が、翌月の婚姻同盟や領地交渉に影を落とすこともある。 エレノアは、それを知っていた。 だから、茶会の席次表を作る時は、招待客の家系図、過去の訴訟記録、婚約の有無、領地の境界争い、宗教儀礼の違い、最近の贈答品の履歴まで確認していた。 だが、その日の王宮庭園に並べられた席は、ひどく美しかった。 美しすぎるほどに、整っていた。 桃色の花。 白いクロス。 銀の茶器。 蜂蜜菓子。 柔らかな風に揺れる薄絹の天幕。 そして、中央には可憐な笑顔を浮かべたリリアナ・ヴァレンシュタインが立っていた。 「皆様、本日はお越しくださり、ありがとうございます」 リリアナは、鈴を転がすような声で挨拶した。 彼女の隣には、王太子ユリウスがいる。 金髪に青い瞳の美しい王太子と、淡い桃色のドレスをまとった可憐な公爵令嬢。 二人が並ぶ姿は、絵画のようだった。 少なくとも、遠目には。 「王妃陛下が身罷られて間もないこの時期に、このような会を開くことに迷いもございました」 リリアナは目を伏せた。 その仕草だけで、周囲の夫人たちの何人かが胸を押さえるような顔をした。 「ですが、悲しみの中だからこそ、皆様のお心が少しでも温まればと思い、ささやかなお茶の席をご用意いたしました」 完璧な挨拶だった。 正確には、挨拶だけは完璧だった。 彼女の声は柔らかく、表情は可憐で、言葉には優しさがある。 ユリウスは満足げに頷いた。 「リリアナらしい、心のこもった会だ」 その言葉に、リリアナは頬を染める。 「殿下がそう仰ってくださるなら、私、安心いたしました」 二人の空気は甘い。 昨日まで王太子の婚約者だった姉が去ったことなど、もう遠い出来事のようだった。 だが、その甘さに包まれた庭園のあちこちで、女官たちは青ざめていた。 女官長マルタは、手元の席次表を確認しながら、唇をきつく結んでいる。 昨日、エレノアが置いていった引継書。 そこには明確に書かれていた。 ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人、隣席不可。 ローゼン侯爵夫人は上座寄り。ただし王妃基金の話題を避けること。 セルベリア大使夫人は王家側から三番目。王妃との私的親交に配慮。 財務官夫人と孤児院後援会関係者は、会話が届かない距離へ。 そのどれもが、守られていなかった。 いや、守られていないどころか、見事なまでに逆へ配置されていた。 ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人は隣同士。 ローゼン侯爵夫人は末席に近い場所。 セルベリア大使夫人は、若い男爵夫人たちの中に混ぜられている。 財務官夫人の正面には、王妃基金の支出に疑念を抱いている孤児院後援会の伯爵未亡人。 それは、火種を一つの皿に盛りつけたような席次だった。 マルタは朝、止めようとした。 しかしリリアナは微笑んで言った。 「大丈夫よ、マルタ。仲の悪い方同士でも、同じお茶を飲めば分かり合えるわ」 女官長として、これ以上強く言うには権限が足りなかった。 王太子ユリウスも、リリアナの案を褒めた。 「対立する家同士をあえて近づけ、和解のきっかけを作る。実に温かい発想だ」 温かい発想。 マルタはその言葉を聞いた時、心の中で王妃の名を呼んだ。 王妃エレオノーラなら、決して許さなかっただろう。 エレノアなら、席次表を見た瞬間に差し戻しただろう。 だが、二人ともここにはいない。 「マルタ」 リリアナが振り向いた。 「皆様をお席へご案内して」 「……かしこまりました」 マルタは深く頭を下げた。 そして、崩壊は静かに始まった。 最初に異変が起きたのは、ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人の席だった。 ハウゼン侯爵夫人は、鋭い目元をした年配の婦人である。黒に近い紫のドレスをまとい、扇の開き方ひとつで周囲を黙らせるような迫力があった。 ミルド伯爵夫人は、彼女より十歳ほど若く、柔らかな笑みを浮かべている。しかしその笑みは、決して穏やかなだけのものではない。 二年前、ハウゼン侯爵家の次男とミルド伯爵家の長女の婚約が破談になった。 原因は、ハウゼン家側の不誠実な交際だとも、ミルド家側の持参金交渉の失敗だとも言われている。 真相がどちらであれ、両家は以後、同じ場にいても視線すら合わせない。 エレノアはそれを知っていた。 だから、必ず距離を置いていた。 だが今、二人は隣り合って座っている。 「まあ」 ハウゼン侯爵夫人が、扇の陰で微笑んだ。 「本日はずいぶんと近いお席ですのね、ミルド伯爵夫人」 「ええ、本当に」 ミルド伯爵夫人も微笑み返す。 「まさか王宮が、私どもの過去のご縁をこれほど大切にしてくださっていたとは」 言葉だけなら穏やかだった。 だが、周囲の夫人たちの背筋が一斉に伸びる。 ハウゼン夫人は扇を閉じた。 「ご縁。そう呼べるものが、まだ残っておりましたかしら」 「少なくとも、そちらのご子息が我が家の娘へ残した心の傷よりは、長く残っておりますわ」 「まあ。傷、と仰るのね。てっきり伯爵家では、婚約破談を都合よく美談に変えたのかと思っておりました」 「都合よく事実を隠すのは、侯爵家のお得意でしょう?」 周囲の空気が凍った。 銀の匙が、誰かの皿に小さく触れる音だけが響く。 リリアナは最初、何が起きているのか分からなかった。 彼女は慌てて近づき、明るい声を出した。 「お二人とも、今日はどうか楽しいお話をなさってくださいませ。せっかくのお茶会ですもの」 ハウゼン侯爵夫人が、ゆっくりとリリアナを見た。 「リリアナ様」 「はい」 「この席次は、あなたがお決めに?」 リリアナは少し誇らしそうに微笑んだ。 「ええ。皆様に新しいご縁が生まれればと思いまして」 「新しいご縁」 ミルド伯爵夫人が小さく笑った。 「なるほど。王宮では、婚約破談もご縁として再利用なさるのですわね」 リリアナの笑顔が固まった。 「え……?」 「お若い方の優しさとは、時に残酷ですこと」 ハウゼン侯爵夫人は茶器を手に取った。 「前任のエレノア様は、少なくともこのような無神経な席次はなさいませんでしたわ」 その名前が出た瞬間、リリアナの肩がわずかに震えた。 エレノア。 昨日まで、この場を仕切っていた姉。 リリアナが笑顔で追い出した姉。 リリアナは唇を噛み、すぐに微笑みを作り直した。 「お姉様はとても優秀でしたもの。私も、これから学んでまいりますわ」 「そう願います」 侯爵夫人の声は、冷たかった。 その場は何とか収まったように見えた。 だが、実際には収まっていなかった。 次に崩れたのは、財務官夫人の席だった。 財務官夫人は、王妃基金の管理に関わる夫の立場をよく理解している女性だった。華美な宝石を好み、茶会でも必ず新しい装身具を身につけてくる。 今日も、首元には大粒の真珠が輝いていた。 その正面に座っていたのは、孤児院後援会の伯爵未亡人、エルザ・ロウ夫人だった。 彼女は亡き夫の遺志を継ぎ、王都の孤児院支援に力を注いでいる。王妃エレオノーラとも親しく、王妃基金の支出について何度も意見書を出していた。 エレノアは、二人を決して近づけなかった。 互いに礼を欠くからではない。 礼を尽くした上で、言葉が刃になるからだ。 「まあ、財務官夫人」 エルザ夫人が穏やかに言った。 「その真珠、見事ですこと」 「ありがとうございます。夫が記念日に贈ってくれましたの」 「それは素敵ですわね。孤児院の屋根修繕費がなかなか下りない時期に、財務官閣下は奥様への贈り物をお忘れにならなかったのですね」 周囲の数人が、茶器を持つ手を止めた。 財務官夫人の笑顔が硬くなる。 「何を仰りたいのかしら」 「いいえ。ただ、王妃陛下がご存命の頃は、支出の遅れがあれば必ずエレノア様が確認してくださったものですから」 また、その名前。 リリアナは離れた席で、ハウゼン夫人たちの空気を整えようとしていた。だが、今度は別の場所から火の手が上がっている。 「王妃陛下のご逝去で、王宮もお忙しいのでしょう」 財務官夫人は紅茶を口元へ運びながら言った。 「すべての申請をすぐに処理できるわけではございませんわ」 「ええ、もちろん」 エルザ夫人は微笑む。 「ただ、孤児院の暖炉は待ってくれませんの。冬が来れば、子供たちは寒さで震えます。真珠と違って、暖炉は首元を飾ってはくれませんけれど」 周囲に、薄いざわめきが広がった。 財務官夫人の頬が赤くなる。 「失礼ですわ」 「失礼ついでに申し上げれば、王妃基金の帳簿確認をお願いしたいものです。エレノア様が担当されていた頃は、少なくとも説明がありました」 財務官夫人は答えに詰まった。 その瞬間を、数人の夫人たちが見逃さなかった。 王妃基金。 帳簿。 支出の遅れ。 その言葉は、ただの茶会話では済まない。 リリアナがようやく異変に気づき、慌てて近づいた。 「どうかなさいましたか?」 エルザ夫人は、優雅にリリアナへ視線を向ける。 「リリアナ様。王妃基金について、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」 「王妃基金……ですか?」 「ええ。孤児院の修繕費申請が三度差し戻されております。理由をご存じでしょうか」 リリアナは瞬きをした。 「その……」 何も知らない。 リリアナの顔に、はっきりとそう書いてあった。 財務官夫人が助け舟を出すように言った。 「ロウ夫人。このような場で若いリリアナ様を困らせるものではありませんわ」 「若いから、困らせてはいけない」 エルザ夫人は静かに言った。 「それは王太子妃候補のお立場にも適用されるのでしょうか」 リリアナの顔が青ざめる。 夫人たちの視線が一斉に彼女へ集まった。 愛らしい。 可憐。 守ってあげたい。 その評価は、社交界では確かに武器になる。 だが、王太子妃候補の席に座った瞬間、その可憐さは免罪符ではなくなる。 リリアナは小さく笑おうとした。 「申し訳ございません。私、まだ引き継いだばかりで……」 「では、前任の方を呼び戻されては?」 誰かが、ぽつりと言った。 声の主は、若い伯爵夫人だった。 その一言は、小さかったが、確実に周囲へ広がった。 前任の方。 エレノア様。 呼び戻しては。 リリアナは手にしていた扇を強く握った。 その時、さらに別の場所で静かな衝突が起きていた。 セルベリア王国の大使夫人、アデライナは、銀髪を結い上げた気品ある女性だった。 彼女は亡き王妃エレオノーラと個人的な親交があり、王妃の葬儀にも隣国代表として参列していた。 本来なら、王家に近い席を用意すべき人物である。 だがリリアナは、彼女を若い男爵夫人たちの近くに置いてしまった。 理由は単純だった。 「外国の方だから、明るくお話し好きな若い方々と一緒の方が楽しいと思って」 その善意は、儀礼上の侮辱に近かった。 アデライナ夫人は最初、何も言わなかった。 ただ静かに茶を飲み、周囲の会話に耳を傾けていた。 だが、若い男爵夫人の一人が無邪気に言った。 「セルベリアでは、王妃様の喪にどのくらい服しますの? 我が国とは違うのでしょう?」 アデライナ夫人は、ゆっくりと茶器を置いた。 「王妃エレオノーラ様は、我がセルベリア王家にとっても大切なご友人でした」 「まあ、そうなのですか」 「ですから本日は、王家の近くで弔意を示すものと思っておりました」 若い夫人たちは、そこでようやく顔を見合わせた。 アデライナ夫人の声は荒くない。 だが、鋭い。 「しかし、どうやら私は賑やかしの席に置かれたようです」 その言葉は、庭園の空気をまた一段階冷やした。 マルタが顔色を変える。 リリアナはその場へ向かおうとしたが、その前にハウゼン侯爵夫人が彼女を呼び止めた。 「リリアナ様。こちらのお茶菓子は、どなたのご選定?」 「え?」 「蜂蜜菓子ですわ。ミルド伯爵夫人のご実家では、蜂蜜取引を巡って我が領と訴訟中なのですけれど」 「そ、それは……ただ、甘くて皆様に喜ばれるかと」 ミルド伯爵夫人が微笑む。 「ええ、甘いものは好きですわ。苦い記憶を思い出す時には、特に」 「まあ、伯爵夫人。記憶力がよろしいのね」 「侯爵夫人ほどではございませんわ。そちらは都合の悪いことだけお忘れになるのがお上手ですもの」 また火が上がる。 リリアナは一歩、後ずさった。 どうして。 彼女の顔には、そう書いてあった。 自分は皆に喜んでほしかっただけ。 仲良くしてほしかっただけ。 笑顔になってほしかっただけ。 なぜ、誰も分かってくれないのか。 なぜ、優しい気持ちを悪く取るのか。 彼女の目に涙が浮かぶ。 それを見たユリウスが、慌てて歩み寄った。 「リリアナ、大丈夫か」 「殿下……私、私、皆様に楽しんでいただきたかっただけなのに」 リリアナの声は震えていた。 その可憐さに、若い女官の一人は思わず同情したような顔をした。 だが、夫人たちは違った。 彼女たちは少女の涙に慣れている。 社交界で涙が武器になることも、よく知っている。 そして、王太子妃候補の涙が、時に多くの者へ責任を押しつけることも。 ユリウスは周囲を見渡し、苛立ちを隠さずに言った。 「皆、少し言葉が過ぎるのではないか」 その場が静まった。 だが、それは敬意による沈黙ではなかった。 王太子の発言が、あまりに浅かったからだ。 「リリアナは今日が初めての茶会だ。至らぬ点があったとしても、温かく見守るのが大人の務めだろう」 ハウゼン侯爵夫人の扇が、静かに開いた。 「殿下」 「何だ」 「私どもは子供の遊びに招かれたのでしょうか」 ユリウスの顔色が変わる。 「何?」 「王太子妃候補が主催する王宮茶会と伺い、参りました。失敗を温かく見守る場であったのなら、先にそう仰っていただきたかったものです」 ミルド伯爵夫人も穏やかに続けた。 「私どもも、暇ではございませんので」 エルザ夫人が茶器を置く。 「王妃基金についても、温かく見守ればよろしいのでしょうか。孤児院の屋根が落ちるまで」 アデライナ夫人は、表情を変えずに言った。 「隣国への礼を欠く席次も、若さゆえで済ませる国だと理解してよろしいでしょうか」 ユリウスは、初めて言葉に詰まった。 リリアナは泣き出した。 「ごめんなさい……私、本当に、そんなつもりじゃ……」 その涙を見て、ユリウスは彼女を庇うように前へ出た。 「悪意がないことくらい、分かるだろう」 すると、ハウゼン侯爵夫人が冷ややかに言った。 「悪意のない無礼は、無礼でなくなるのですか」 ユリウスの口が止まる。 「前任のエレノア様は、少なくとも私どもの過去を調べ、避けるべき火種を避けてくださいました」 ミルド伯爵夫人が頷く。 「あの方は冷たいと噂されておりましたけれど、席次ひとつにも、人の傷への配慮がございましたわ」 「ええ」 エルザ夫人が続ける。 「孤児院の件も、こちらが強く言わずとも、必ず進捗を確認してくださった。あれは冷たさではなく、責任感というものです」 アデライナ夫人は、静かに締めくくった。 「王妃エレオノーラ様が信頼された理由が、よく分かります」 リリアナは、もう顔を上げられなかった。 ユリウスは、唇を噛んだ。 彼はその時、初めて気づき始めていた。 エレノアがしていたことは、ただ書類を整えることではなかった。 小さな衝突を事前に消すこと。 誰かの古傷を不用意に踏まないこと。 王宮の体面を守ること。 関係が壊れる前に、壊れない場所へ人を置くこと。 それを彼は、堅苦しいと呼んだ。 冷たいと責めた。 そして昨日、その人を切った。 だが、気づいたところでもう遅い。 茶会はすでに崩れていた。 ハウゼン侯爵夫人は立ち上がった。 「本日は、失礼いたします」 「お待ちください」 リリアナが顔を上げる。 「私、まだ……」 「リリアナ様」 侯爵夫人は、ほんの少しだけ声を柔らかくした。 「あなたはお可愛らしい方です。けれど、王宮の席に座るには、可愛らしさだけでは足りません」 リリアナの目から、新しい涙がこぼれた。 ミルド伯爵夫人も立ち上がる。 「私も失礼いたしますわ。これ以上、懐かしいご縁とやらを味わうのは胸焼けいたしますから」 財務官夫人は気まずそうに席を立ち、エルザ夫人は深い礼をしてから去った。 アデライナ夫人は最後にユリウスへ視線を向けた。 「殿下。セルベリア王国は、亡き王妃陛下との約束を重んじております。王宮が同じ重さで扱ってくださることを願います」 そう言って、彼女も庭園を後にした。 残されたのは、冷めた茶と、手つかずの菓子と、泣き崩れるリリアナ。 そして、言葉を失った王太子だった。 しばらくして、ユリウスは低い声で言った。 「……誰だ」 周囲の女官たちが身を固くする。 「誰が、この席次を確認した」 マルタは静かに進み出た。 「最終決定は、リリアナ様と王太子殿下でございます」 「私は、細かいことまでは見ていない」 「ですが、リリアナ様の感性に任せるよう、殿下がお認めになりました」 ユリウスの顔が赤くなった。 「ならば、なぜ止めなかった」 マルタは、深く頭を下げた。 「昨日、エレノア様が引継書にて注意事項を残されました。私からもお伝えしました。しかし、最終的な権限は私にはございません」 「……エレノアが?」 「はい」 リリアナが、涙で濡れた顔を上げた。 「お姉様が、わざと分かりにくくしたのよ……」 かすれた声だった。 「私が失敗するように。こんな難しいことばかり書いて、私に恥をかかせるために……」 マルタの目が、初めて鋭くなった。 「リリアナ様」 その声は静かだったが、周囲の女官たちが息を呑むほど厳しかった。 「エレノア様の引継書は、これ以上ないほど簡潔でございました」 「でも、私には分からなかったわ!」 「分からないのであれば、確認すべきでございました」 「私を責めるの?」 「いいえ」 マルタは、頭を下げたまま言った。 「王太子妃候補としての責任を申し上げております」 リリアナは言葉を失った。 ユリウスは顔を背けた。 庭園には、風だけが残った。 その頃、王都外れの祖母の旧邸で、エレノアは静かに紅茶を飲んでいた。 何も知らないわけではなかった。 王宮の茶会が始まる時間は、当然覚えている。 今頃、誰がどの席に座っているかも、昨日のリリアナの様子からおおよそ想像がついた。 だが、彼女は馬車を出さなかった。 手紙も送らなかった。 自分に止める権限はない。 そして、権限のない責任を負うことは、もうしないと決めた。 アニーが控えめに部屋へ入ってくる。 「エレノア様。王宮から使いの方が」 エレノアは茶器を置いた。 「誰から?」 「女官長マルタ様からです。茶会が……その、予定より早く終わったと」 「そう」 エレノアは驚かなかった。 アニーは不安そうに続ける。 「それと、王太子殿下がエレノア様をお呼びになるかもしれないと」 「でしょうね」 「お戻りになりますか」 エレノアは窓の外を見た。 祖母の庭では、古い樫の葉が風に揺れている。 静かな朝だった。 王宮の庭園がどれほど荒れていようと、ここには誰の怒声も届かない。 「いいえ」 エレノアは言った。 「正式な文書が届くまでは、動きません」 「ですが……」 「私はもう、王太子殿下の婚約者ではありません」 その言葉は、昨日よりも少しだけ言いやすくなっていた。 胸は痛む。 けれど、その痛みの下に、別の感情が芽生えている。 自由。 そんな綺麗なものではないかもしれない。 けれど少なくとも、誰かの失敗に無条件で駆けつける鎖は、少しずつ外れていた。 エレノアは胸元に手を当てた。 黒封蝋の遺言状。 王妃が遺した最後の鍵。 王宮は、今日ひとつ目の亀裂を知った。 だが、これはまだ始まりに過ぎない。 茶会は崩壊した。 次に崩れるのは、隣国との約束だ。 そしてその時、王宮はようやく思い知るだろう。 失ったものは、愛想のない婚約者ではなかったのだと。夜明けが粥を半椀食べた。 その報告が王妃基金の北翼へ届いた時、リリアナは最初、その一文の重さが分からなかった。 ――母仮名「夜明け」、朝の粥を半椀摂取。 ――吐き戻しなし。 ――子仮名「灯り」、授乳少量。体温安定。 ――夜間灯油使用、二回。煙なし。 ――保温布ずれなし。 半椀。 たったそれだけ。 けれど、フィオナ司祭はその報告を読んで、静かに息を吐いた。「よかった」 その声が、思っていたより深かった。 リリアナは顔を上げる。「半椀って、そんなに大事なのですか?」「大事です」 フィオナ司祭は頷いた。「出産の後、食べられない母親は少なくありません。体力が戻らなければ、赤子を抱くことも、乳を与えることも、考えることも難しくなります」「考えることも?」「はい。名前をどうするか。どこへ行くか。誰に助けを求めるか。そういう判断にも、体力が要ります」 リリアナは、手帳を開いた。 ――食べることは、考える力につながる。 書きながら、少し胸が痛んだ。 名前の記録。 灯油。 保温布。 煮沸鍋。 どれも必要だ。 でも、その前に粥を飲み込めるかどうかがある。 支援は、紙の上だけでは進まない。 胃の中にも、進み具合がある。 エレノアは報告書を手に取り、確認した。「粥の材料は、何日分残っていますか」 ヘンリクが別紙をめくる。「緊急支援分として三日分です。ただし
聖リディア産婆院へ夜間灯油が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 夜ではない。 そこを、エレノアはあえて確認した。 夜間灯油という名だからといって、夜に運べばいいわけではない。 北東区の細い道は、日が落ちると足元が悪い。 灯油壺を積んだ馬車が石畳の欠けに車輪を取られれば、割れる危険がある。 割れれば、油は無駄になるだけでなく、火の近い場所では危険にもなる。 だから、昼に届ける。 夜に使うものほど、昼のうちに整える。 それは、王妃基金がこの数日で学んだ新しい原則だった。 北翼の小会議室では、朝から夜間灯油の支援方法について話し合いが行われていた。 リリアナは、机の上に置かれた小さな油壺の見本をじっと見つめている。 茶色い陶器の壺。 口は細く、栓には封印紐が付けられている。 派手さはない。 けれど、これが夜の産婆院で赤子の呼吸を見る灯りになる。「灯油は、ただ渡せばいいものではありません」 薬師マティアスが言った。「火を扱います。赤子や産後の母親がいる場所では、置き場所、灯芯、換気、消火用の水まで確認が必要です」 リリアナは、すぐに手帳を開いた。「灯油、灯芯、換気、消火用の水……」 書きながら、少し顔をしかめる。「灯りを増やすと、危険も増えるんですね」「はい」 マティアスは頷いた。「暗いと体調確認が遅れます。しかし、明るくするだけでは火事の危険が出ます」「両方見る」「そうです」 リリアナは深く息を吐いた。 最近、本当に何も一つでは済まない。 布を届ければ洗濯が必要になる。
王妃基金の第一便が聖リディア産婆院に着いたのは、夜の二刻を少し過ぎた頃だった。 王宮北翼を出てから、馬車は北東区へ向かった。 王都の中心部を抜けるまでは石畳も整っていたが、北東区に入ると車輪の音が少し変わる。 道幅は狭くなり、家々の灯りもまばらになった。 夜風は冷たい。 春が近いとはいえ、日が落ちれば冬の名残がまだ肌を刺す。 馬車の荷台には、保温布十組、穀物袋、塩、石鹸、仮登録紙の束、そして王家医療院から一時貸与された煮沸鍋が積まれていた。 煮沸鍋は重かった。 運搬係の男二人が、慎重に持ち上げる。 鍋の底が荷台に当たるたび、鈍い音がした。 派手な贈答品ではない。 花も、菓子も、金糸の布もない。 けれど今夜、この鍋は花籠よりずっと必要だった。 聖リディア産婆院は、北東区の細い通りを入った先にあった。 石造りの小さな建物で、入口の上に白い布が掛かっている。 布には、聖リディアの印だという小さな灯火の刺繍。 その灯りも、今は少し煤けて見えた。 扉を開けたのは、年配の産婆だった。 名をエダという。 髪を布でまとめ、袖をまくり、顔には疲労が濃い。 それでも目は鋭かった。「王妃基金からです」 フィオナ司祭の補佐が告げると、エダは一瞬だけ目を伏せた。「……今夜のうちに来るとは思いませんでした」「緊急支援です。まず、煮沸鍋と保温布を」「こちらへ」 産婆院の中は、静かだった。 静かすぎるわけではない。 奥から赤子の小さな泣き声が時折聞こえる。 低い声で誰かが祈る声。
焼き菓子の焼き色見本が調理場に貼られた翌日、王妃基金の机には、まったく別の種類の紙が積まれていた。 甘い香りはない。 代わりに、湿った羊皮紙と、古いインクと、急いで書かれた文字の匂いがする。 支援申請書。 春挨拶会が終わり、公爵家の噂が一段落し始めたころ、王妃基金には新しい申請が増えていた。 理由ははっきりしている。 王妃基金が止まらなかったからだ。 不正が裁かれ、夫人会が揺れ、公爵家が監督下に置かれ、王太子府も再教育中。 それでも孤児院の屋根は直り、救貧院へ麦と薪は届き、薬草茶は配布前に止められ、使用人宿舎にも暖房費という欄ができた。 王都の人々は見ている。 貴族たちが笑っていても、現場は別の目で見ている。 あの基金は、まだ動くのか。 声を出せば、今度は届くのか。 そう思った者たちが、申請書を持ってくる。 だから、机の上に紙が増えた。 エレノアは、その山を前にして静かに息を吐いた。「増えましたね」 リリアナが隣で言った。 手帳はすでに開いている。 以前なら、紙の山を見ただけで逃げたくなっていたかもしれない。 今は、怖そうな顔をしながらも、逃げる姿勢ではなかった。「ええ
アデレード老伯爵夫人の伝言は、翌朝の調理場にまで届いた。 ――昨日の焼き菓子は、もう少し焼き色があってもよろしい。これは噂ではなく感想です。 その一文を読んだ瞬間、調理場の空気は止まった。 王都社交界で笑われたとか、菓子が一種類だったとか、贈答品を断ったとか、そういう話はすでに耳に入っていた。 調理場の者たちは、表の会場には立たない。 けれど、屋敷の中の声は意外とよく伝わる。 春挨拶会の菓子が一種類だったこと。 それを笑う夫人がいたこと。 だが、味は悪くなかったと言われたこと。 そして、老伯爵夫人が焼き色について言及したこと。 菓子係の若い料理人トマは、紙を読んだまま固まっていた。「焼き色……」 彼は呟いた。 隣で粉をふるっていた年配の料理女マーサが、腕を組む。「老伯爵夫人は、菓子をよくご存じだからね」「怒ってますかね」「怒っていたら、味には触れないよ」「でも、焼き色」「焼き色だね」 調理場の奥では、料理長バルトが黙って鍋を見ていた。 年季の入った大きな背中。 分厚い手。 口数は多くない。
春挨拶会の翌朝、噂はもう王都を歩いていた。 噂というものは、馬車より速い。 招待状より軽く、花籠より扱いに困る。 誰が最初に言ったのか分からないまま、朝の茶と一緒に広がり、昼には別の言葉をまとい、夕方にはまるで昔からの事実だったかのような顔をする。 ヴァレンシュタイン公爵家の小さな春挨拶会も、例外ではなかった。 北翼の小会議室には、朝から数通の私信と報告書が届いていた。 差出人はさまざまだ。 夫人会。 王宮女官筋。 公爵家の出入り商人。 庭師組合に近い老伯爵夫人の家令。 そして、王家監督官ヘルマンの情報確認係。 机の上に並べられた紙を見て、リリアナは顔をこわばらせた。「もう、こんなに?」「まだ少ない方です」 ヘルマン監督官は淡々と言った。 少ない。 これで。 リリアナは少しだけ椅子に沈んだ。 昨日の疲れが、まだ体に残っている。 花籠を断った。 飾り紐見本も断った。 菓子箱も断った。 薄桃色のドレスで立った。 笑われても戻さないと決めた。 それだけで十分疲れていたのに、翌朝にはもう噂の整理である。 社交界は、休ませてくれない。 エレノアは、いつものように紙を分類していた。 だが、その顔にもわずかな疲労があった。 マルタが無言で茶を置く。 今日は菓子も一つ添えられていた。 リリアナがすぐに気づく。「これは記録済みですか」 マルタが穏やかに答える。「はい。会議中の軽食として記録済みです」「







